3)昆布は1000年の歴史!? その登場と時代の流れ

「続日本紀」

日本の歴史を学ぶ時には「古事記」「日本書紀」と並んで必ず出てくる日本の歴史書ですね。これは平安時代初期である797年に作られた勅撰史書=当時の天皇からの命によって書かれた歴史書です。

そして、この「続日本紀」が、昆布が登場する最も古い文献です。「蝦夷から朝廷に献上されていた」という記述があります。その時には「昆布」という名称ではなく、「夷布」(ひろめ、えびすめ)という名称で呼ばれていました。

もう少し先の時代まで同様のことですが、今とは異なり物を運ぶのがとても困難な時代です。北海道近辺でしか収穫できない昆布は非常に貴重なものでした。

そんな貴重な昆布、当時はだしを取ったりなどの食べる目的ではなく、薬として珍重されていたようです。

奈良~平安時代

租税として指定されていたそうです。奈良時代の租税と言えば「租庸調」ですね。この中では米や特産物である「租」に含まれる、ということになります。

平安時代中期に編纂された律令の法典「延喜式」において、昆布が正式に租税に指定されています。そして租税として使われるということはその当時は「お金」と同様の価値があった、と言い換えることもできますね。

また、海運が徐々に発達した時期ではありますが、それでもやはり物を運ぶのは困難を極めていました。

そんな海運事情からまだまだ貴重な昆布。庶民には手が届かないものです。仏事や神事など特別な儀式などに使われるのが主でした。ただ寺院においては精進料理として用いられていたという記録もあります。

鎌倉時代

この頃には海運技術の発達が進み、鎌倉時代中期から後期にかけては大型船も建造されつつあったようです。

物流が発達したことにより、精進料理がさらに普及しました。仏教の教えの中で食事の作法が重要な修行とされていたという面もあるようです。

さらには寺院から武家へも広がりました。

なお、この頃にはとろろ昆布がすでに作られており、加工技術の発達も伺えます。

室町時代

運搬の技術も上がっていき、蝦夷から日本海を通って各地へ広がっていきました。

武家にもさらに広まっていきました。そして、京都では昆布巻などの昆布料理が開発されるようになり、武家だけではく庶民への広まっていったようです。

戦国時代に近づく頃から、「よろこぶ」という言葉の響きがあることで縁起物としても使われ始めたようです。

江戸時代

長い江戸時代には、若狭や京都、大阪に広まっていきます。商人=「あきんど」が活躍し、昆布が頻繁に取り引きされるようになったようです。

「天下の台所」である大阪にたどり着いた後には、加工が盛んに行われるようになり、とても一般的なものになりました。「だし」として多くの料理に使われるようにもなりました。

北海道からは松前船が多く活躍するようになっています。

縁起物としてもさらに広まり、結納品に添えられるようになったのもこの頃のようです。

この頃から昆布の価値がより一層に高まっていっていることが判りますね。

明治以降

産地である北海道において盛んに収穫されるようになり、名産地として知られるようになっていきました。

明治維新については面白い話もあり、「明治維新は昆布のおかげ」と言われるエピソードもあります。それは、当時の鎖国の状況の中、日本海側の加賀藩と薩摩藩は独自のネットワークを使って中国に対する密貿易をしていたそうです。この密貿易により莫大な利益を得ることができ、それが討幕のための軍事力を増強する資金になった、というお話です。面白いですね。

そんな風に歴史の中でとても重用されてきた昆布ですが、近年では食の欧米化に伴って消費量が減っているようです。また、それが一つの原因でもありますが、生産量もかなりの減少を見せています。

しかし、消費量は減ったもののそれが逆にきっかけとなったのでしょうか、改めて昆布の栄養面が見直され注目されるようになっています。

昆布の進化

では、歴史上に挙がる以前、北海道付近の昆布はどのようにして進化してきたのでしょうか?

まず、2千万年ほど前、ロシア極東域から北海道北部や東部に、厚葉昆布、ガゴメ昆布など(学術的にはチヂミコンブ、ガッガラコンブ、カラフトトロロコンブ、ガゴメコンブ、エンドウコンブなど)のいわゆる「チヂミコンブグループ」が到達しました。

それが、太平洋側を経て西側に広がり、いわゆる「ミツイシコンブグループ」である長昆布、日高昆布(学術的にはナガコンブ、ミツイシコンブなど)となりました。

そして更に西方(苫小牧→函館付近)から北方(小樽→留萌方面)へと北上して真昆布、利尻昆布など(学術的にはマコンブ、リシリコンブ、オニコンブ、エナガコンブ、ホソメコンブなど)の「マコンブグループ」となりました。

こうして北海道全体の沿岸部に様々な種類の昆布が広がりました。

昆布ロード

鎌倉時代以降、北海道から日本海航路で全国に広まっていったのは前述した通りです。

徐々に南下していったわけですが、7~8世紀頃には秋田県付近、14世紀には福井県付近に送られたようです。

さらに、17世紀には山口県の下関付近に到達し、そこから回って大阪に届けられました。これを「西廻り航路」と呼びます。

下関付近からは九州側にも運ばれ、沖縄(当時は琉球王国)に到達、さらに中国(当時は「清」)にも到達しました。

この一連の通り道は「昆布ロード」と呼ばれています。

名前の由来

「昆布」という名前の由来には、いくつかの説があります。

アイヌ人由来説

まず一つ目はアイヌ人由来説。アイヌ人が「こむぶ」または「こんぷ」と呼んでいたのが「こんぶ」となったという説があります。

日本語由来説

次は日本語由来説。平安時代に「ひろめ」と呼ばれ、その漢字は前述「夷布」、または「広布」と書かれていたこともあったようです。これが「こうふ」となり「こんぶ」と変わったという説があります。

中国語由来説

最後に中国語由来説ですが、もともと中国はアイヌから昆布を仕入れていたそうで、その時には「綸布」と書かれ「くわんぷ」と呼ばれていたそうです。それが訛って「こんぶ」になり、日本に逆輸入されてきた、と考えられています。